Story 02
快哉湯
東京入谷の銭湯建築活用から始まった建物再生事業
私が仕事において本格的に「古い建物の再生」を始めたのは2015年頃のこと。当時の自分自身の居住地東京都台東区にある入谷(正確には下谷、入谷、根岸)というまちから始めました。
このまちには、ここ10年くらい親しくさせて頂いている家主さんやお店の運営をしている方達が暮らしています。現代都市的なマンションも多いですが、戦前から残る古民家、長屋、銭湯、写真館、お煎餅屋さん、肉屋さん、花屋さん、神社、お寺等が残り、どこかほっとする風景がかろうじて残っている不思議なエリアです。私の父の故郷がここ入谷であることから学生時代から住み、20代から30代前半まではこの界隈で過ごしました。
自分が暮らしていた住まいからほど近い場所に「快哉湯(かいさいゆ)」という銭湯があり、疲れが溜まった時はここに行き、富士山のペンキ絵を見ながらのびのびとした浴槽の湯に浸かって心身を癒しました。高校まで住んでいた新庄にはこのようなスタイルの銭湯が無く、最初に入った時は衝撃を受けました。大学の研究で歴史ある建物を知れば知るほどこの日常的に入れる快哉湯が好きになり、頻繁に通うようになりました。
そんなことがきっかけで、ビルばかりで古い建物なんて無いと思い込んでいた東京のまちを歩くようになりました。歩いてみると入谷、根岸にも素敵な建物が存在し、さらに東京芸術大学がある上野桜木、谷中のほうに足を延ばすとその味のある古民家を保存活用されている団体(NPOたいとう歴史都市研究会)があることを知りました。この団体を知ると間もなく、自分自身もその団体に入会し、東京における仕事ではなかなか触れるチャンスが無かった古い建物に関われる可能性が巡ってきてとても嬉しかったことを覚えています。入会して数か月後に、とある銭湯からNPOに御手紙が届いていると私に通知がありました。なんと私が通っていた快哉湯の家主さんからの御手紙だったのです。
長年銭湯を営んできた家主さんも高齢になり、建物や設備も老朽化しているので銭湯は近い将来やめてしまうが、建物には思い入れがあるので保存活用する方法があるかどうか知りたいという相談の御手紙でした。日常的に入りに行っていた銭湯の危機を知ってショックを受けると同時にNPO入会直後にこの話が自分に届いたことに驚きました。NPOメンバーと一緒に建物調査をさせて頂き、間取り、構造、規模感、劣化具合を把握した上で、どう活用していくかという対話が始まりました。




銭湯の運営を続けて頂く前提で、銭湯として使っていない時間帯をイベント等で運用する案、カフェ、Bar、花屋、映画館等、妄想的なものも含めて様々な案が浮かび上がりましたが、どれも現実の話には落ち着かず、再度自分事として考え直しました。
考え抜いた末、浴室側をシェアオフィス、脱衣所側をカフェにするという案に落ち着きました。その理由の一つ目は、自分自身がこれからの時代を見据え、スクラップアンドビルドではない建物再生の拠点をここ快哉湯に作りたいという大きな構想を抱き始めたこと。もう一つは建物全体がオフィスとなると銭湯のようにふらっと入る場所が失われると思い、まちに近い脱衣所にはカフェを併設させたいと思ったことです。この大きな方針と家主さんから建物をお借りする賃料等の条件の話し合いが決着し、快哉湯はオフィス兼カフェとして保存活用されることとなりました。
ほっとするのは束の間、自分達で活用するために傷んでいる部分の修繕、耐震補強計画、オフィスとカフェとして成立させるための計画、そして施工。計画~施工のプロセスは自分の夢が叶う瞬間でもあって眠れないほどワクワクした日もあり、また古くなっている建物の改修に時間、労力、費用が想像以上にかかり不安を感じる日もありました。
平成の終わり、2019年の4月に建物再生が完了しお披露目会を行いました。自分自身はヘトヘトに疲れていましたが、家主さん御一族はじめ、入谷、台東区で活躍される方達、大学の同級生、先輩後輩達が蘇った快哉湯を見に来て下さり感動の一日でした。
そして、自分達「建物再生室」の拠点として仕事がスタートしました。その時点でカフェの運営形態、借り手は決まっておらず、平時はオフィスと打ち合わせで使い、休日に地域の方から持ち込まれたワークショップ、マルシェ、絵画展、ライブ等を行いました。
その約1年後、近隣のホテル運営者(株式会社べステイト)と知り合い、rebon快哉湯という名のカフェがオープンして今に至ります。カフェとしてもリピーターになってくださる方もいれば、ここで地域に開いたイベントをしたいという方とも出会い、湯はないものの多くの方が日常的に入り混じる場として育ってきています。